2011/01/18| 七福萬来
チーム伊能忠敬
東京・渋谷で「志の輔らくご IN PARCO」 に、私の仲間でありアニキ的存在のデザイナー枩山(まつやま)さんと行ってきました。
この公演、1ヵ月間のロング公演です。
今回の演目で、最後の一席は 「大河への道」 という志の輔さんが創作された噺でした。
日本で初めて日本地図、正式名称は大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)を作った、伊能忠敬をモチーフにしたストーリーです。
この伊能忠敬という人物、とてつもない偉人です。
49歳まで、千葉県佐原で造り酒屋を営んだ後、家督を息子に譲り、「地球の大きさを知りたい。」と言って、江戸に出てきます。
そして、江戸幕府天文方の高橋至時(たかはし よしとき)の弟子になります。
当時高橋32歳・伊能50歳でした。
それから、72歳で没るまで、日本地図を作るため日本全国自分の足で歩いたそうです。
その歩数、4千万歩と言われています。(地球1周分)
伊能忠敬が死去したのは1818年、大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)、通称・伊能図が完成したのはその2年後の1820年7月です。
伊能忠敬は、地図の完成を見ることなく死んでしまったのですが、それを公にしたのは伊能図が完成をした2カ月後の1820年9月だったのです。
しかも江戸幕府も、伊能忠敬がすでに死んでしまっていた事を知りませんでした。
なぜ仲間であるチーム伊能は、伊能忠敬の死を2年余りも発表しなかったのか。
当時の地図作りは、測量しその膨大なデータから方程式に当てはめ図化していきます。
伊能忠敬は、図化する前に死んでしまったので、地図製作の仲間たちが伊能忠敬の功績を残すため死んだことの発表をしなかったのです。
志の輔師匠は、ここに着目したのです。
作家や芸術アーティストたちの作品には脈々と流れるテーマやメッセージというものがあります。
志の輔らくごにも同様のテーマがあり、私にはそれが 「家族・仲間」であると思っています。
それを強く感じさせた作品でした。
公演終了後、楽屋にご挨拶へ行くと、志の輔師匠は数年前に私が贈ったバスローブを着てくれていました。
手前勝手に仲間意識を感じました。
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